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東京地方裁判所 昭和24年(行)35号 判決 1960年12月21日

判  決

名古屋市中区朝日町一丁目一〇番地

原告

興和紡績株式会社

右代表者代表取締役

三輪隆康

右訴訟代理人弁護士

江碕健三

東京都千代田区霞ケ関一丁目一番地

被告

右代表者法務大臣

植木庚子郎

右指定代理人法務省訟務局付検事

広木重喜

農林事務官

吉川正夫

右当事者間の補償金増額請求事件について、次のとおり判決する。

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

(双方の申立)

第一、原告の申立

一、被告が原告に対し昭和二三年一〇月二日別紙目録記載の各土地につき定めた買収対価計金四七、二四八円八〇銭を計金五、三三三、二〇八円三〇銭に増額する。

一、被告は原告に対し、金五、二八五、九五九円三〇銭及びこれに対する昭和二三年一〇月三日から右支払ずみまで年五分の割合による金員を支払うべし。

一、訴訟費用は被告の負担とする。

との判決を求める。

第二、被告の申立

一、原告の請求を棄却する。

一、訴訟費用は原告の負担とする。

との判決を求める。

(原告の請求原因)

原告の主張は以下のとおりに要約することができる。原告は百万言を費して述べるところがあるが、そのうち以下に要約した以外のものは、右の要約に到達するまでの道筋を詳しく説明するものか、右の要約をふえんするものか、原告代理人の信念を語るものかのいずれかにすぎないから、一々あげることは省略することにする。

一、原告は別紙目録記載の各土地の所有者であつた。

二、被告は、昭和二三年一〇月二日自作農創設特別措置法(以下「自創法」という)三条等の規定に基づいて右土地を買収し、かつ、その対価を計金四七、二四八円八〇銭(その内訳は別紙目録記載のとおり)と定めて、これを原告に交付した。

三、原告は、右買収処分そのものには不服はないが、右対価の額について不服がある。すなわち、右対価の額は、後は詳述するように、本来計金五、三三三、二〇八円三〇銭と定めらるべきものであるから、自創法一四条に基づいて買収対価を右の額に増額する旨の判決を求めるとともに、その判決が確定するときは被告は原告に対し右買収処分の発効時において右増額された額の対価を支払うべき義務を負つていたこととなるから、被告に対し、右増額分から前記原告がすでに受領した金四七、二四八円八〇銭を控除した残額たる金五、二八五、九五九円三〇銭及びこれに対する右買収処分の発効した日の翌日である昭和二三年一〇月三日から右支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

四、原告が、本件買収の対価は金五、三三三、二〇八円三〇銭と定めらるべきであると主張する理由は以下のとおりであつて、要するに、国家が私人の私有財産を公用収用する場合の補償額は、所有権の完全円満性にかんがみその本来の価格全部を補償するいわゆる完全補償額たるべく、これを農地についてみれば当該農地が自由経済下にもつ交換価格全額の補償たるべきものであり、そして本件農地についての右の額は原告主張のとおりの額となる、というのである。以下、原告の主張を詳述する。

五、およそ国家その他の公共団体が私人の所有する私有財産を公共のために用いるべく収用する場合には、正当な補償をしなければならないこと、憲法二九条三項の明記するところである。そして、右「正当な補償」の意義については、憲法が私有財産制度尊重の建前をとつている以上(憲法一三条、二九条等参照)、いわゆる「完全な補償」であるべく、単なる「相当な補償」では足らないものと解すべきである。したがつて、右公用収用の一つの事例とみるべき自創法に基づく農地買収にあつても、その補償は農地所有権に対する完全な補償でなければならない。

六、そこで、右農地所有権に対する完全な補償の内容について考える。自創法は、その六条三項において右補償の内容(買収対価の額)を規定し、本件においても、被告は右の規定によつて本件買収の対価額(すなわち上述金四七、二四八円八〇銭なる額)を定めている。しかし、右の規定によつて算出される額は、前記「完全な補償」にほど遠いものであつて、憲法にいう「正当な補償」にあたらない(この点は更に「被告の答弁に対する原告の反論」として後述する)。したがつて、右自創法の規定は憲法二九条三項に違反した違憲無効の規定である。

しからば、農地所有権に対する完全な補償はいかにあるべきか。それは、結局、農地所有権の経済的価値を完全に実現するものでなければならぬものであるから、これを明らかにするには、まず農地所有権の本質・性格を考察し、次いでその経済的価値を完全に実現させるための経済的諸問題を考究していかなければならない。

七、一般に所有権なる権利は、本来、物をその使用・収益・処分の全面にわたつて完全に支配し得る権利であつて、完全円満性、絶対不可侵性を有するものである。このような権利は、人間社会の本質に根ざした権利であつて、人為的につくられる実定法的制度以前のもの、すなわち天賦の権利であるといわなければならない。言いかえると、それは、自然法から生ずる権利であつて、実定法によつてはじめて生ずるものではない。そして、元来実定法秩序は自然法の秩序の具現化にすぎず、しかもわが新憲法が自然法の理念をその基調としていることは明らかであるから、自然法の理念、したがつて憲法の基調となつている所有権の絶対性は、現在においても立法その他の分野で最大限に尊重されなければならないのである。近時、所有権の相対性ということをとなえる者が多いが、そそが右に述べたごとき所有権の本質を変革させる意味のものであるならば、その考え方は誤りである。所有権の本質は、今日においても依然不変であり、ただその行使の方法等において、いわゆる公共の福祉、社会的義務性等の立場からの制約を受けるにすぎず、いわば所有権の「体」は変らず、ただその「用」の面においてのみ多少の変化を受けたにすぎないものというべきである。そして、以上のことは、農地の所有権についても全く同様にいえることである。

しからば、右のような農地所有権に対して完全補償を行なうには、当該補償を行なうべき時及び場所における種々の制約(当該所有権の行使面に対する種々の政治的経済的制約)にとらわれることなく、その所有権がその本然の姿たる絶対性を最も顕わすとみられる政治的、経済的体制の下における当該所有権の経済的価値を完全に実現させるようにしなければならぬことは自ら明らかであろう。そこで、所有権本然の姿が最もよく顕われる体制は何かということが次の問題となる。

八、所有権本然の姿たる絶対性(完全円満性、絶対不可侵性)が最もよく顕われる政治的・経済的体制とは、資本主義経済体制、しかも自由競争が最大限完全に行なわれている資本主義経済体制であることは明らかである。そこで、本件のごとく農地所有権の経済的価値を算出するには、本件農地に対する買収及び補償が行なわれた当時のわが国の種々の政治的経済的制約の因子にとらわれることなく、一般に右のごとき自由競争の行なわれている資本主義経済体制下における農地の交換価格の算出方法を基礎としてこれを算定すべきである。

しかるときは、この点について、次の考え方を採るべきである。すなわち、以上のようにでき得る限り純粋に、絶対的な農地所有権、完全な資本主義体制を想定するときは、農地価格の算出方法は、農地が右の体制下において本来自然にもたらす収益力を中心にして考えるべきである。そうであるとすると、それは、農地について常に考えられるいわゆる差額地代を資本還元した自作収益価格によるべきである、ということができる。この点を次に詳述する。

九、農地は、その生産性(地味など)に差等のあること及び同一農地でもそこにいわゆる収穫てい減の法則の働くことの二つの自然的要因から、必然的に最劣悪地(限界地)とそれ以外の優良地(非限界地)とに区別される。そして、限界地における農産物生産に要した費用(限界生産費)はその種農産物の価格を形成することとなるから、限界地におけるよりも低廉な生産費で同種農産物を生産し得る優良地にあつては、当該農産物の価格(収入)から右優良地における生産費(支出)を控除した差額を収益としてあげることになる。これすなわち差額地代と称せられるものであつて、それは、土地所有者が土地に投下した資本の利子にあたる意味での地代ではない。また、それは、農地所有権の絶対性を制約せず、これを自由な資本主義経済の体制下におくとき、農地の自然的性質に基づいて当然に生ずるものであつて、政治的・社会的圧迫によつて左右し得るものでもない(たとえば統制地代でもない)。農地所有権というものは常にかかる差額地代を産み出す根源となつているのである。それゆえ、農地所有権は、あたかも、常に差額地代という一定の利子を生む資本ともいえるものであり、したがつて、差額地代を逆に安定性ある一定の利率(たとえば国債利回り)で除すればその商として資本還元された農地所有権の価格(自作収益価格)が出ることになる筋合である。

一〇、そこで、問題は主として、ある時点における農地一般について、右にいう差額地代をいかにして算出するかということであるが、これには種々の方法が考えられる。しかし、これを本件農地の場合について考えてみると、次の諸要素を組み合わせることによつて右の地代を算出できるものといえよう。

(一)  田(本件農地はいずれも田である)の法定賃貸価格の存在……政府の説明によると、地租の適正課税標準を定めるため、土地の利用価値(土地の年用役の価格)を最もよくあらわすものとして賃貸価格なるものが設定されたのである(大正一五年法律第四五号土地賃貸価格調査法、昭和一一年法律第三六号賃貸価格改訂法及び同年大蔵省令第一五号同法施行規則。)。この賃貸価格、すなわち法定賃貸価格の実体は、土地の状況が類似した区域ごとにその区域内の中庸(平均、正常)の慣行小作料(それは米による物納小作料である)を採つてそれを金に換算した金額である。それはその土地の長期的安定小作料すなわち適正地代の表現者として公認されているものといい得るのであつて、その具体的数値は、昭和六〜一〇年の五年間(調査該当年次)の右中庸小作料(公課、修繕費、維持費を含めた租地代)の平均数値に右五年間の平均庭先米価を乗じて得た積である。そして、本件土地の右法定賃貸価格は、別紙目録記載のとおりであつて、これは右の五年間における本件土地の適正地代、すなわち差額地代性ある地代をあらわすものというべきである。

(二)  そこで、右法定賃貸価格から、本件買収時(昭和二三年一〇月二日)の本件土地の地代部分を導き出す方法を考えればよい。ここで参考となるのは、右賃貸価格の実体は物納小作料(一定量の米)の米価による換算価格であること及び米価の騰貴は地代部分の増加をきたすという経済法則であり、また、昭和二〇年度以後わが国では米価についていわゆるパリテイ計算方式が採られているということである。この計算方式によれば、現在米価を公定するには、米価及び農業経営の最も安定していたといえる基準年度(昭和九〜一一年)における自由米価に対し、右基準年度に比しいま米価を公定せんとする年度の農家の購入諸品目の値上り綜合価格指数(パリテイ指数)を乗じて、その積をもつて現米価とするのである。そこで、以上を参考とするときは、まず前記法定賃貸価格(すなわち昭和六〜一一年間の平均地代部分)に対し、右基準年度(昭和九〜一一年)平均米価の右昭和六〜一〇年度平均米価に対する比、すなわち右両年次間の米価騰貴率を乗じて、その積として本件土地についての右基準年度における地代部分を見出すことができる。したがつて次に、これに対して、求める年月(本件の場合は昭和二三年一〇月二日)のパリテイ指数(すなわちそれだけの米価騰貴率)を乗ずれば、求める年月におけるその土地の地代部分を算定することができるのである。

(三)  なお、右地代を除すべき分母となる利率は、安定性ある国債利回りの率、すなわち〇・〇三六八を採用すべきである。

一一、そこで、以上によつて本件土地の自作収益価格を算定するにそれは次のとおりである。(下表)

すなわち、原告が最初に主張したように、本件土地の自作収益価格、すなわち本件土地の買収対価(「正当な補償」)の額は、右金五、三三三、二〇八円三〇銭であるべきである。

(被告の答弁)

原告主張の一及び二の事実は認めるが、三以下の主張は争う。

一、被告主張の要旨は、私有財産を公用収用する際の補償は、必ずしも原告主張のように完全補償たることを要せず、相当な補償で足り、したがつて農地の公用収用の場合には、当該農地のその買収時の経済状態下における交換価格を基準としてこれを補償するをもつて足りるというのである。以下、被告の主張を詳述する。

二、憲法二九条三項にいう「正当な補償」の意義については、憲法の一つの基調である私有財産制度尊重の建前からすれば原告のいうように完全補償が望ましいかも知れないが、他方憲法は公共の福祉の尊重をもその基調の一としているのであるから(憲法一二条、一三条、二九

条二項等)、この観点をも加味して考えるときは、それは必ずしも完全補償を意味するものではなく、いわゆる「相当な補償」を意味するものと解すべきである。したがつて、本件のような農地買収にあつても、その補償は農地所有権に対する相当補償で足りるものというべきである。

三、ところで、自創法六条三項は、農地買収におけるその補償の内容(買収対価の額)を定めており、本件についても被告はこれに従つて買収対価を算定した。そこで、以下、右の規定が右憲法二九条三項にいう「正当な補償」すなわち「相当な補償」を実現するに足りる規定であるか否かを検討する。

右自創法六条三項は、農地買収の対価を「当該農地につき土地台帳法による賃貸価格があるときは、田にあつては当該賃貸価格に四十……を乗じて得た額……の範囲内においてこれを定める」としている。ところで、前記憲法二九条三項にいう「正当な補償」すなわち相当な補償とは、当該収用私有財産の収用時の社会経済状態下における交換価格相当額の補填を意味するものと解すべきであるから、問題は、右自創法六条三項の規定が当時の農地(田)の交換価格をあらわすに足りるか否かということにかかつてくるのである。

四、そこで、当時のわが国における農地(殊に田)の交換価格を考えると、当時田の取引については農地調整法(以下「農調法」という)が種々の統制を試みており、その一として田の取引価格もまた統制されていたから、この統制価格にして不当なものでない限り、当時のわが国における田の交換価格は右統制価格と同額であるというべきである。そこで、右統制価格の内容をみるに、農調法六条の二の一項は、農地の取引価格は「当該農地ノ土地台帳法ニ依ル賃貸価格ニ主務大臣ノ定ムル率(注・昭和二一年一月二六日農林省告示第一四号により、田にあつては四〇)ヲ乗ジテ得タル額」の範囲内であるべきことを規定している。

この規定はまさに前記自創法六条三項と同趣旨のものである。すなわち、農地買収の対価額を定める自創法の規定は、その内容として、一応当時のわが国における農地の交換価格を算出する方式を示している農調法の規定と同一の定めをしているのであり、したがつて、右農調法の規定にして不当なものでない限り、自創法六条三項の規定は農地買収の対価として正しく憲法のいう「正当な補償」にあたいするものを定めているということができるのである。

五、よつてつ、ぎに農地の取引価格を定めた農調法の右規定は不当なものでないか否か、換言すれば、それは、単に農地の取引価格を定めたというのみでなく、憲法の「正当な補償」の要請にこたえるような農地の交換価格を正当に示しているものであるか否かについて考察することにする。

まず、農調法が、農地(田)の取引価格を「賃貸価格の四〇倍」と定めた根拠をみる。およそ農地の交換価格を算出するには、いわゆる自作収益価格によるのが最も適当である。ただ注意しなければならないのは、右自作収益価格の算定にあたつての算定方式の各因子の選び方及びその評価(額)は、当時の経済状態(当時のわが国はいわゆる統制経済の時代であつた)によるべく、これを捨象して観念的にのみ考え得る完全な自由経済の状態によるべきではないということである。以下、この立場から、右自作収益価格の算定方法を述べる。

(一)  当時の農家の反当り年間粗収入……二四八円七五銭

その内訳は次のとおり。

1、反当り玄米収量……二石(前五カ年〜昭和一五年から昭和一九年まで――平均水稲一反歩当り実収高であつて、供出分一・一四三石及び自家保有分〇・八五七石の和である)。

2、右価額……二三四円三六銭(供出分一七〇円〇八銭及び自家保有分六四円二八銭の和であつて、一石当りの単価は供出分が一四八円八〇銭――昭和二〇年産米生産者価格すなわち政府買上価格一五〇円から運賃諸掛り一円二〇銭を控除した額――であり、自家保有分が七五円――同年産米消費者価格――である)。

3、副収入……一四円三九銭(食糧管理局の昭和二十年産米生産費調査によるモミガラ、ワラ、屑米の代金)

4、反当り粗収入……二四八円七五銭(右2と3の計)

(二)  反当り年間生産費用……二一二円三七銭(食糧管理局の昭和二〇年産米生産費調査による、反当り生産費用から土地資本利子及び小作料を控除したもの)

(三)  地代部分……二七円八八銭

その算出方法は次のとおり。

1、純利益……三六円三八銭(右(一)から(二)を控除した額)

2、利潤部分……八円五〇銭(反当り生産費用の四%)

3、地代部分……二七円八八銭(右1から2を控除した額)

(四)  自作収益価格……七五七円六〇銭(右地代部分を最近発行国債利回り三・六八%で除して資本還元した額)。

(五)  ところで、当時のわが国における田の標準賃貸価格は中庸田反当りにして一九円〇一銭であつたから、右自作収益価格はこれの三九、八五倍にあたる。ゆえに、農調法は、これを四〇倍に切りあげたうえ、田の取引価格を上記のように「当該農地の賃貸価格の四〇倍の額」の範囲内と定めたのである。

六、そこで、右算定方法の妥当性を考える。そのためには、やはりまず農地所有権の性質を考察し、次いでそのような農地の交換価格とは何を意味するかを考えなければならない。

まず農地所有権の性質を考えるにあたつては、第一に農地所有権を含めて所有権一般の絶対性をどのように解するかが問題である。原告は、所有権の絶対性(完全円満性、絶対不可侵性)は現在においても少しも変るものでないというが、それは誤りである。すなわち、所有権なる権利は、かつては絶対性を有するものと考えられ、また、そのように遇されてきたが、現代においては最早そのように考えることは許されないのである。これをわが憲法の定めるところに照らしてみても、そもそも国民の基本的人権も公共の福祉のためには制限を受けるのであり(一三条)、また、右基本的人権の一たる財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律で定められるものであり(二九条二項)、私有財産といえども正当な補償をすれば公共のために用いることが認容されている(同条三項)のであるから、現憲法下においては所有権を含む財産権は社会性を強く帯びているものといわなければならない。そして、農地所有権に限つてみても、周知のとおり、右権利の絶対性は、すでに終戦前から農調法等によつて徐々に制限されており、今次大戦の終了に伴う連合国の対日管理が開始されてからは、その制限は飛躍的に強化された。自創法の制定、農調法の改正等によつて右の制限強化が実現されたのである。かくして、現在においては、農地所有権は、最早かつての完全円満な絶対権ではなく、その本質において強く社会性を帯びた相対的な権利に転化したというべきである。したがつて、これを公用収用する際の「正当な補償」の内容を考えるにあたつても、漫然かつての自由経済下における完全円満な農地所有権の交換価格相当額の実現を考えるべきでなく、現在の事態を考慮し、かつ私有財産権の保障と公共の福祉ということを念頭において十分これを吟味しなければならない。

すでに述べたように、現在わが国にあつては、農地所有権の機能は、終戦前から高まつてきた種々の制約の結果、最早かつてのように、農地を自由に使用収益処分し得る権利ではなく、むしろ一定の利益を産む生産手段たる農地に対する収益権と化そうとしつつあるのである。この傾向にかんがみ、本件買収当時の農地の交換価格は、右収益権的性質から算出するのが最も適当であるというべきである。ところで、農調法の規定の根拠となつた前記算定方法は、正しく右のような方法によつているのであるから、最も妥当なものといわなければならない。しかも本件買収は、いわゆる農地改革の一環として、高度に公共の福祉の立場から行なわれたものであり、土地の所有者はつとめてこれに協力すべきであることをも併せ考えると、右の算定方法を根拠として定められた上記農調法六条の二の一項による取引価格は、十分当時のわが国における農地(田)の交換価格を具現しているものといえるのである。

七、以上の次第で、結局、自創法六条三項の定める買収対価の額は十分当時の農地(田)の交換価格をあらわしているといえるから、右の規定は憲法に違反するものではない。したがつて、これによつて本件買収の対価を算定した被告の処分にも違法のかどはなく、本件対価額は被告の定めた金四七、二四八円八〇銭をもつて相当とするものである。これに対する原告の増額の訴及びそれに基づく差額給付の請求はすべて理由がなく棄却されるべきである。

(被告の答弁に対する原告の反論)

被告は、憲法二九条三項の「正当な補償」は必ずしも「完全な補償」たるを要しない旨並びに農地所有権は相対的かつ収益権的な権利と化し、もはやその絶対性を主張し得ないものであるから、これが公用収用に際しての補償は、そのような性質と化した同権利の交換価格をもつてすれば足りる旨主張するが、その然らざることは、原告がさきに述べたとおりである。

そして、買収農地に対する「正当な補償」とは、当該農地が自由経済下にもつ自作収益価格相当額の補償であるべきことも原告がさきに述べたとおりであるが、その算定方式としては、原告主張の方式の外に、被告が述べるような方式も、その採用諸係数にして適正なものである限り、考えられないわけではない。そこで以下この点を検討する。

一、まず、被告は、反当り玄米収量を二石と計上しているが、これは過少である。大体この数値は、農林省公表の昭和一五〜一九年の五カ年平均全国総生産高を台帳面田総面積で除した商であつて抽象的数値であるのみならず、右全国総生産高は、全国各市町村からの報告数量の集計であるが、それは、供出関係からくる農民の攻勢に押されて実収高より約一割低いものであることはほとんど斯界の常識である。また、右数値算出の分母である総面積中には準不毛田、休耕地等を含んでいるから、これらの事情を合せ考えると、右二石なる数値は、実収高より過少なものとなつていることは間違いない。のみならず、食糧管理局の生産費調査によれば、右五カ年平均反当り玄米収量は二・四〇三石となつている。反収と生産費とは本来密接不可分の関係にある点からみても、生産費と関係のない前者(二石)よりもこれと関係のある後者(二・四〇三石)を採るべきものである。いずれにしても、右反収二石なる数字は、本算定方式上適正な数値となり得るものではない。

二、次に、被告は、右の価額を算出するための米価として、昭和二〇年度統制米価を用いている。しかし、原告がさきに述べたとおり、米価こそ農地(田)における限界生産費、したがつてそこにおける差額地代を決定する直接の因子であるから、ここで採用すべき米価は、完全な資本主義経済体制に最も近い状態を現出している時代の米価、たとえば原告が採用した昭和九〜一一年度の米価のようないわゆる自由米価を基礎として算出された米価であるべきである(このことは、私経済関係を律する法規による統制価格は、公用収用のごとき公法関係の世界には妥当しないということからも論証されよう)。

仮に百歩を譲つて、右の場合、統制米価を採用することを認めることとしよう。しかし、その場合においても、資本主義経済体制を基調とする国家における統制経済は、あくまで資本主義的自律性原理をその根幹とすべきものである以上、右の統制米価も、この原理に違背しない限度で、すなわち、資本主義経済下の価格形成法則に従い、かつ他の自由価格による物価と調和をとり得る限度で定められる合理統制米価でなければならない。このように考えると、被告採用の数値には二つの問題が生じる。

一つは、供出分の米について採られた一石当りの単価金一四八円八〇銭の基礎となつた昭和二〇年産米生産者価格一五〇円なる数字である。これについては、政府は、当初同年産米生産者価格を右のとおり石一五〇円と定めたがこれを実施するに至らず、その後これを石二〇〇円と改めてこれを実施したのである。したがつて、この後者の価格の方が同年産米の生産に投下された限界生産費により近い価格といえるから、右一石当りの単価の基礎数値はよろしく右石二〇〇円なる数字を採用すべきである。

次は、保有分の米について採られた一石当りの単価金七五円――昭和二〇年産米消費者価格――なる数字である。元来正常米価は、その形成生産費のみで決まるのが経済法則であるにもかかわらず、一方の供出分については食管調査による米価形成生産費を標準とした生産者価格により、他方保有分については、その生産者価格と売渡価格との差を政府で負担するところの、生産費と何ら関連をもたぬ、単なる行政的便宜的低額価格にすぎない消費者価格によつたということは、絶対許すことができない。供出分の米も保有分の米もその形成生産費に差異のあるはずはなく、等しく石三〇〇円(少くとも石一五〇円)を現実に要した以上、保有分の米についても、供出分と同じく、その価額の計算に用いるべき一石当りの単価の数値は、右石三〇〇円(少くとも石一五〇円)なる数字であるべきである。

三、右一及び二に述べたごとく、被告の算定方法は、その採用諸数値に誤りが多く、その結果、適正な地代、したがつて適正な合理自作収益価格を算出し得なかつたのみならず、更に、次に述べるように、一定時において右のようにして算出された価格を買収対価と定めたまま、その後現実に買収を行なうまでの経済状態に応じ右の額をスライドしてこれを増額しなかつた点にも誤りがある。すなわち、農地についてこれに対する「正当な――完全な――補償」の内容たり得る合理自作収益価格は上述差額地代の額によつてほぼ決定され、そしてその差額地代は米価によつて決定されるといつてよい以上、一旦ある時点において右自作収益価格が決定されても。その後現実に買収が行なわれるときまでに米価が変動すれば、右自作収益価格もまた当然これに応じて変動すべきものであることは明らかである。ところで、被告が主張する自創法六条三項の規定は昭和二〇年一一月ころの状況を基礎として定められたものであるところ、この頃から本件買収が行なわれた昭和二三年一〇月ころにかけては、インフレが極度に進行して貨幣価値が大巾に下落したから、勢い生産費は増大し、その結果農地(田)限界生産費と等しかるべき米価もまた高騰したのである(現に、政府が決定した昭和二三年一〇月当時の米価は石三、五九五円である)。このように米価が騰貴すれば、優良田と非優良(限界)田との生産費の差、すなわち地代部分もまた常に増大することは上来原告が説明してきたとおりであるから、右の昭和二三年一〇月においては、右の昭和二〇年一一月ころにおけるよりも、田の自作収益価格、すなわち田の交換価格たるべきものが増大していたわけである。しかるに、被告がこれに眼を閉じて、自創法の規定するままに田の買収対価を据えおこうとするのはまことに不当であるといわなければならない。なお、この点について被告は後記「原告の反論に対する被告の反駁」に記載のごとく種々弁明を試みているが、そのいずれもが理由のないことは明らかである。ことに、米価の変動は必ずしも自作収益価格に変動を及ぼさないとする立論は、米価(生産費)の騰貴は地代の騰貴をきたし、地代の騰貴は自作収益価格を増大させるという経済学上の原理に反する謬論である。

四、なお、本件土地は二毛作田であるから、被告のような算定方式によつてその価格を定めるためには、粗収入の内容として、米価による粗収入の外に、裏作麦価による収入をも計上すべきである。しかるに、被告はこれを計上せずして算定を進めているから、その結論たる価格も適正な自作収益価格となるものでない。

五、以上一ないし四のような次第であるから、被告主張の本件買収対価額は、明らかに、憲法の要請たる「正当な――完全な――補償」の内容たるべき田の交換価格、すなわち田の合理自作収益価格をあらわすものではないのである。

(原告の反論に対する被告の反駁)

憲法の「正当な補償」の意義及び農地所有権の本質に関する被告の見解並びに本件農地に対する「正当な補償」とは本件農地が当時の統制経済下にもつていた自作収益価格相当額の補償であるべきことは、被告がさきに答弁として述べたとおりである。これに対する原告の反論は、憲法及び農地所有権の性質に関する点を除けば、被告の採用した算定方式の諸数値を、自由経済上の立場から批判したものであるが、そもそもこのように自由経済の立場によるということ自体が誤りであるから、その結果あらわれる具体的批判もすべて当を得ないものである。以下、この具体的な批判について反駁する。

一、まず原告は、被告の採つた反収二石なる数値が過少でありかつ不合理であるという。しかし、その理由として原告が挙げるところのものがいずれも理由のないことは明らかである。

二、次に、右二石に乗ずべき米価につき、原告は自由米価を基礎として算出すべきであるというが、その考えがまちがつていることは上記のとおりである。更に原告は、供出分・保有分を通じ石三〇〇円(少なくとも石一五〇円)の生産者価格によるべしというが、昭和二〇年産米の生産者及び消費者価格が各一五〇円及び七五円と定められた事情及びその算定根拠は次のとおりであつて、これによつても、原告の批判が誤りであり、被告の採用数値が正しいことがわかる。

そもそも米のごとき重要食糧の価格に関する政府の基本的な考え方は、今次大戦中においては、一貫して、農業再生産の確保と農村インフレーションの防止及び国民生活における主食価格の負担軽減を計ることにあつた。その結果、必然的な成りゆきとして、農家から政府が米麦を買い入れる際の価格は生産費と物価その他の経済事情を基準としたものとなり、他方政府が一般消費者に米麦を売り渡す際の価格は家計費と物価その他の経済事情を基準とするものとなり、ここに主食価格については政府買入価格と政府売渡価格という二重価格が採られたものである。

そして、この考え方は、終戦後の二〇年産米についても採られた。ただ、この頃のわが国の経済構造は、戦時中の悪条件の累積によつて質的な変化を生じていたので、この点をも考慮したうえ、前年度(昭和一九年度)産米の生産費が一石当り九二円八四銭であつたことを参考として、二〇年産米については、ひとまず、政府買入価格は九二円五〇銭(そのうち、五五円は小作料相当額として地主の取得となり、残三七円五〇銭は生産確保補給金として耕作者に交付される)、同売渡価格は四六円(前年度から据置き)と定められたのである。ところが、昭和二〇年は、インフレーションの進行と未曽有の米凶作に見舞われ、前年度の生産費を基準とした米価では、米の再生産はもちろん、農家の生活すら危胎に瀕することとなつたので、同年産米の価格改訂を行なうこととなり、その結果、次に述べるような基準から、同年一一月一七日、生産者価格一五〇円なる数字が産まれるに至つた。

(一)  農家の反当り年間生産費……二五一円六〇銭

その内訳は次のとおり。

1、支 出……二六五円九九銭

種子代……二円〇三銭

肥料代……七六円〇三銭

労 賃……八三円一三銭

畜力費……一一円九九銭

諸材料費……九円九七銭

農舎費………五円五一銭

農具費……一二円一〇銭

公租公課……四円六九銭

部落協議費等……一円〇二銭

土地資本利子……二七円七三銭

小作料……二五円八九銭

資本利子……五円九〇銭

2、副収入……一四円三九銭

3、生産費……二五一円六〇銭

(右1から2を控除した額)

(二) 農家の反当り年間生産高……一、八一七石

(三) 石当り生産者価格……一五〇円

その内訳は次のとおり

石当り生産費……一三八円四七銭(右(一)を右(二)で除した額)

利 潤(六分……八円三一銭

一割……一三円八五銭

運賃諸掛……一円二〇銭

以上合計(六分…一四七円九八銭

一割…一五三円五二銭

(これにより前記一五〇円なる額を決定)

(四) 以上のとおりであり、なお右一五〇円のうち、地主の取得すべき小作料相当額五五円はそのまま据置きとし、残九五円は前同様生産確保補給金として耕作者に交付することとしたのである。

(五) なお又、右買入価格の増額に伴い、売渡価格も七五円に増額された。

以上の次第で、米価につき必然的に二重価格が存在していた以上、供出分及び保有分についてそれぞれ政府買入価格(生産者価格)及び政府売渡価格(消費者価格)を適用したことはもとより適正であり、また右生産者価格につき使用した石一五〇円なる数字も右にみたように極めて合理的な価格であるといわれなければならない。原告は、この点について、石三〇〇円なる数値を用いるべきであつたという。なるほど、昭和二〇年産米については、その後昭和二一年三月三日に至り、ますます進行するインフレーションを阻止するための一方策として新物価体系が作られ、その一環として米の生産者価格も石三〇〇円に引きあげられたことはたしかであるが、それは、今次の農地改革において買収農地の選択、その対価額の決定等についてその基準日とされた昭和二〇年一一月二三日より後のことであるから、本件買収の対価額算定にあたりその基準となる米価として石三〇〇円なる数値を採用せよということは失当である。

三、次に原告は、本件買収対価の算定につき、被告が右基準日現在の米価を採用し、その後右買収時までに高騰した米価を用いなかつたのは不当であるという。しかし、その非難の当らないことは次のとおりである。

まず、農地買収の対価は、むしろ右基準日以後の状態によつて変動させてはならないものである。すなわち、今回行なわれた農地買収を含むいわゆる農地改革は多数の農地を対象として急速かつ広汎に行なわれなければならなかつたため、農地の被買収適格性及びその対価の算定方法などについて原則として一定の時点を選んでそれを基準に実施せざるを得なかつた。それがすなわち上来述べるところの昭和二〇年一一月二三日現在における農地の封鎖と称されるものである。したがつて、被買収農地の所有権は、右基準日において一定の対価請求権という財産権に転化したものといえるのであつて、これを更に具体的にいえば、右所有者は自創法が施行された昭和二一年末において右の対価に相当する額面の農地証券の交付を受けているべきであつた。そして、この農地証券の券面額及び利率は一定している。もし、これをその後の経済状態等によつて変更するときは(すなわち、農地買収の対価を右基準日以後の状態に応じて増額するときは)、多数の農地を対象として行なわれる農地買収においてその対価の額に差異が生ずるということが起こる。かかる不均衡な結果は今次農地改革の遂行上許されないものというべきである。

のみならず、右の理は、次の観点からも支持される。すなわち、原告は、米価の高騰は常に地代部分、ひいては自作収益価格の増額をきたすから、昭和二〇年産米米価よりも本件買収時たる昭和二三年当時の米価が高騰している以上、自作収益価格を内容とすべき買収対価額も増額されるべきであるというが、米価の高騰は常に必ずしも地代部分の増加をきたすとは限らない。現に、さきにも触れたように、昭和一九年産米の生産者価格に対し、昭和二〇年産米の同価格一五〇円、次いで三〇〇円と増額された場合にも、その原因が一般物価の変動により米の生産費が増加したことにあり、地代部分には何らの関係がなかつたからこそ、右価格中地主の取得すべき小作料相当部分は据置きとなつているのである。そして、このことは、その後昭和二一年及び昭和二二年の各産米米価が五五〇円、一、七五〇円と増額されたときでも全く同様であつて、ただそこでは米価の算定につきいわゆるパリテイ計算方式が採られ、また、昭和二一年以後は小作料が金納となつた関係から、上述したような政府買入価格の内部における小作料相当額と補給金との区別を廃したにとどまるのである。以上のように、本件買収の基準日たる昭和二〇年一一月当時と本件買収の発動時たる昭和二三年一〇月当時とでは、米価(政府買上価格にして生産者価格にあたる)は石当り一五〇円から一、七五〇円に高騰してはいるが、それはいずれも一般物価との関係で騰貴したにすぎず、農地についての地代部分には何らの変動を及ぼさないから、農地の自作収益価格には何らの変更がないのである。したがつて、たとえ買収の発効時が昭和二三年であつても、右買収の対価額算定の数値上――米の生産費につき昭和二〇年当時の物価指数を採る以上――米価につき同年の米価石一五〇円を採用することは決して不適法、不妥当ではなく、むしろ本件買収にあたつて右の数値を採用することは最も妥当である。

四、最後に、原告は二毛作田の問題を提出する。本件農地が二毛作の可能な田であることは被告も認める。しかし、二毛作田であるからといつて、その価格算定上常に米収入の外、裏作麦収入を計上せねばならぬというものではない。けだし、二毛作田は一毛作田より一応利用価値も大であることにより対価も異なつてよいように思われるけれども、しかし、二毛作田は全国的にみて比較的僅少であるのみならず、その利用価値をよく考察すると、生産費を差し引くとかえつて収益は皆無又はマイナスとなることが多い。ところで、農地について定められている上述賃貸価格は十分これらの事情を考慮して定められているのであるから、各農地ごとにその賃貸価格に対して一定の倍率を乗じてその価格(買収対価)を算定する自創法六条三項の算定方式はこれらの点をも十分解決しているものというべく、要するに原告の反論は理由がない。

(証拠関係省略)

理由

一、原告主張の一及び二の事実(原告が本件土地の所有者であつたこと及び被告が右土地を買収しかつ対価を金四七、二四八円八〇銭と定めてこれを原告に支払つたこと)は、当事者間に争いがない。

二、原告は、右買収処分そのものに不服はないが、右対価の額につき不服があるという。しかも、その内容は、右買収の対価額を自創法六条三項の範囲内において増額し、かつその差額分を支払うべしというのではなく、そもそも右自創法の規定自体が違憲無効であるから、右買収の対価額を憲法二九条三項にいう「正当な補償」というにあたいする額まで増額し、かつその差額を支払えというのであるから、問題は、まず右自創法六条三項の規定が果して合憲なりや否やの判断にかかつている。もし右の規定が合憲なりと判断されるにおいては、原告の請求はその前提を欠いて理由なきに至るのであり(被告が本件買収対価を右自創法の規定によつて算定して支払つたことは、当事者間に争いがない)、仮に右の規定が違憲なりと判断されるにおいては、さらに進んで、原告の増額の請求が認容し得るものであるか否か(それは、かかる場合の増額請求は自創法一四条に基づいて行い得るか否かという問題と、右増額請求の内容そのものは正当と認められるか否かという問題とを含む)について判断しなければならないことになるのである。

三、そこで以下、自創法六条三項の合憲性いかの点について検討する。

憲法は、その二九条三項において、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」と定める。すなわち、私有財産を公共のために用いるには「正当な補償」をしなければならないわけである。本件買収を含み、今次終戦後行なわれた自作農創設のための地主からの農地買取は、右にいう「私有財産を公共のために用いる」場合にあたるものと解すべきであるから、右買収に当たつては「正当な補償」をしなければならなかつたわけである。

自創法六条三項は、右憲法の定めるところを受けて、農地の買収に当たり、地主に対してすべき補償の内容を規定したものである。そこで、以下においては、まず自創法六条三項の内容をみ、次いで右憲法の立場からこれを批判していくことにする。

四、自創法六条三項は、農地(そのうち田)の買収に対する対価の額を当該田の賃貸価格の四〇倍以内としている。そこで、自創法が対価を右のように定めるに至つた根拠を更にみるに、それは、被告も説明するとおり(そして、原告も右規定の根拠が以下のとおりであること自体は争つていない)、右の対価は当該田の価格相当額であり、その価格は、自由経済下に非ざる統制経済下の、そしていわゆる地主採算価格に非ざる自作収益価格であるべきことの前提の下に、被告主張のような算定方式(農家の反当り年間粗収入から総生産費用を引いて純利益を出し、更にこれから一定の利潤部分を引いて地代部分を出し、これを国債利回りで除する方式)をもつて右価格を算出したうえ、これを、標準賃貸価格との関係でその四〇倍(以内)と表現したものであることが認められる。

五、そこで、これを憲法の立場から批判していくためには、まず憲法二九条三項の精神と解釈を更に明らかにしておかなければならない。

そもそもわが新憲法が国民の私有財産権に対しいかなる態度をとるかは、憲法の一般的規定(一二条、一三条等)からもうかがい知ることができるが、直接これを明定するものは憲法二九条である。ところで、同条の趣旨を正しくつかむためには同条の一項及び二項を同時にかつ綜合的に観察することが必要である。同条一項は「財産権は、これを侵してはならない」と定め、同条二項は「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める」と規定する。すなわち、同条は一項で私有財産制度維持、私有財産権尊重の趣旨を明らかにし、同時に二項で右財産権は公共の福祉の要請に適合すべきことを宣言している。したがつて、私有財産権を取り扱うにあたつては、その尊重の立場とその制約の立場とを調和させるようにしていかなければならない。そこで、さらに、憲法二九条三項をみるに、同項では、私有財産といえどもこれを公共のために用いることができること、しかし、その場合には、正当な補償をしなければならないことが規定されている。すなわち、そこでは、公共の福祉の立場と財産権尊重の立場とが綜合的に規定されているのである。したがつて、右二九条三項にいう「正当な補償」の意義を理解するには、右二つの立場を調和させるように解釈することが必要である。このように考えてくると、右「正当な補償」の意義を、私有財産権尊重の一側面のみから観察して、これをいわゆる完全補償(等価値補償)のいいなりと解することも、また、公共の福祉尊重の側面を強調し過ぎて、これを、当該私有財産の経済的価値をほとんど抹殺してしまうような補償の趣旨に解することも、ともに適正な解釈ということができない。右にいう「正当な補償」とは、あくまで、上述した私有財産権尊重と公共の福祉との両立場の綜合調和という観点からみて、当該収用時において相当と認められる補償、すなわちいわゆる「相当な補償」の意味に解すべきものである。これが、わが新憲法の要請に最もかなう解釈であるといわなければならない。そして、終戦後に行なわれたいわゆる自作農創設のための農地買収に対する補償の内容を定めるに当たつても、この考え方は最もよく妥当する、と当裁判所は考える。

六、したがつて、農地買収に対する「正当な補償」、すなわち農地所有権に対する相当補償の内容をきめるに当たつては、その買収時における農地所有権の具体的状態をよく観察考慮して、上述の立場を踏みはずさないようにしなければならない。

農地所有権なる財産権もかつては、一般に所有権がそうであつたように、その使用・収益・処分において自由な、いわゆる完全円満性、絶対不可侵性を有していたことは疑いがない。しかし、それが、昭和一三年に制定された農調法をはじめとして、昭和一四年の小作料統制令、昭和一六年の臨時農地価格統制令、同年の臨時農地等管理令並びに今次大戦中及び終戦後におけるこれらの法令の改正を通じ、所有権一般の中にあつてもきわだつて、右完全円満性、絶対不可侵性を制約されてきたこともまた明らかなところである。すなわち、右の過程を通じて、農地は、耕作以外の目的に変更することを制限され、その小作料を金納とされてしかも一定の額に据え置かれ、その自由処分を制限され、しかも農地の価格そのものも特定の基準に統制されるに至つた。これらは、すなわち、所有権一般が近来に至りその社会的義務性を強調されてきた傾向と合致し、むしろその傾向を最も強くあらわすものである。これは、農地の所有権自体が、かつてのような完全絶対な権利ではなく、今や公共の福祉の立場からその本質自体に変容を受けた相対的な権利と化していることを示すものといわなければならない。言いかえると、農地所有権は、憲法二九条一項によつて財産権としての尊重を受けるには相違ないが、その権利の内容そのものは、同条二項にあるとおり、公共の福祉に適合するように、法律をもつて、前述のような相対的なものに定められたのである。

そして、本件買収を含め自作農創設のための農地買収は、農地の所有権が右のような権利と定められるに至つた後において実施されたものであるから、右農地買収における補償は、右のような農地所有権のもつ経済的価値を補償したときに、さきに述べた私有財産権の尊重と公共の福祉という二つの立場の調和という精神にかなう、最も相当な補償、すなわち憲法二九第三項にいう「正当な補償」をしたことになるのである。しかるに、原告の所論は、これに反し、一方の立場に偏して、かつての完全絶対な姿の農地所有権を想定し、観念的にのみ考えられるその経済的価値の全部を補償することによつてはじめて憲法にいう「正当な補償」をしたことになるとするのであつて、わが新憲法の精神に照らし、当裁判所、到底これを容認することができない。

七、以上のとおりであるから、以下においては、そのような農地所有権のもつ経済的価値はいかにして算定されるべきであるかという観点から、前記自創法六条三項の規定を検討していくことにする。

さて、農地は、(本件買収の行なわれた当時、その自由な処分を制限され、また、その価格も統制されていたことは、上述したとおりである。そのような状態のもとでは完全な市場におけるがごとき自由な取引価格の生じ得ないことは当然である(いわゆる闇価格のごときは問題とならない)。そこに生ずるのは、統制経済下の統制取引価格である。それは、原告の指摘するように、元来は私経済上の価格であるかも知れないが、しかし、それがその時その場所における当該物件の経済的価値を一応あらわすものとすれば、それは、公用収用のごとき公法関係の世界においても、その物件に対する相当補償の内容を定める重要な基準となるのである。農地(田)についてこれをみれば、農調法は、上記のように、その六条の二の一項で、田の当時の統制取引価格を当該田の賃貸価格の四十倍の範囲内と定めているのであつて、これは農地(田)買収の対価額を定めた前記自創法六条三項の内容と全く同一である。すなわち、自創法は、その買収農地に対する対価(当該農地所有権に対する補償)の内容を、農調法によつて定められた当時の農地の統制取引価格に求めているわけである。

しかしながら、ある時点における統制取引価格が、常にその時点における当該物件の相当な経済的価値をあらわすものとは、必ずしも断言できない。言いかえると、ある物件の統制取引価格相当額は常にその物件を公用収用する場合における相当な補償額となると言いきることはできない。それは、当該物件のその時における相当な経済的価値に近いものをあらわすのが普通であるということはいえよう。しかし、この点について明確な断定を下すためには、更に、右統制価格のよつて生じた根拠を探究し、それが果して公用収用の際の補償として上述した意味における「相当な償補」額として採用するにあたいするものであるか否かを検討しなければならない。

八、農調法六条の二の一項が、農地(田)取引の統制価格を当該田の賃貸価格の四〇倍(以内)と定めたについてまず注意すべき点は、同法が田の価格をいわゆる自作収益価格によつて求めている点である。およそ、田の価格(田の所有権のもつ客観的経済価値)を現在のわが国の経済機構の上で求めようとするときには、右自作収益価格(農地所有者が自ら耕作して収益を得ている場合の価格)がいわゆる地主採算価格(農地所有者が農地を小作させて収益を得ている場合の価格)のいずれかの価格によるべきものである。ところで、上述したような最近のわが国における農地所有権の性質の変遷の経過にかんがみ(それは農地の所有者に対して原則として自ら耕作すべき社会的義務を課している)、更に本件買収が自作農(それは農地の所有者が自ら耕作して収益を得る場合である)を創設するために行なわれた趣旨に照らすときは、農調法が田の価格を求めるにつき、地主採算価格の算定方法によらず、自作収益価格の算定方法により、自創法また同じ方式を採用していることは、けだし相当といわなければならない。

次に、田の価格を求めるにつき右自作収益価格の算定方式を採る場合、その算定方式における各因子の組み合わせ方及びその数値が問題である。まず、各因子の組み合わせ方につき、農調法六条の二の一項は、さきに自創法六条三項について述べたと同じく、農家の年反当り総収入から総生産費用を控除して純収益を出し、更にこれから一定の利潤部分を差し引いて地代部分を算出したうえ、これを安定利子率で除して右の価格を算出し、これを標準賃貸価格との関連においてその四〇倍(以内)と表現しているのであるが、右算定方式は、その各因子の数値にして適正なものである限り、当時のわが国の田の適正自作収益価格を算出するに十分であるといえる。

そこで、右各因子の数値の相当性を検討する。その数値の内容は被告主張のとおりであるから、これを項を改めて総括的及び個別的に検討する。

九、まず総括的な問題として、そこにおける数値が、いずれも当時の統制経済下の各物価等を基礎としていることの当否が問題となる。原告は、この点について、農地の所有権は現在でもその本質において完全絶対な権利であること、憲法二九条三項にいう「正当な補償」とは農地買収の場合このような完全絶対な所有権の客観的経済価値をあますところなく実現する「完全な補償」でなければならぬと解すべきことの前提の下に、そのような農地所有権の経済価値、すなわちそのような意味における農地の価格は、完全な資本主義体制に最も近い状態の下において考えられる農地の価格でなければならず、それを求めるには、資本主義経済体制を基礎とする限り、種々の時代的社会的政治的制約を超えて農地について常に発生すると考えられる所謂差額地代を資本還元するという考え方によるほかないから、右の価格を被告採用のような算定方式によつて算出する場合には、その各因子の数値は右差額地代を正確にあらわすに最もふさわしいやり方として常に自由経済下の物価等を基礎にこれを算出すべきであるという。しかし、原告の右の所論は、上述したように、その前提たる憲法二九条三項の解釈及び農地所有権の本質の理解の仕方においてすでに正当といえないのみならず、鑑定人大内力鑑定の結果(以下「大内鑑定」という)によれば、原告のいう差額地代なるものは、元来が抽象的法則的な学問的所産の結果であつて、これをもつて直ちに現実の農地に関する地代を正当に表現したものとみるわけにいかないこと、また、それは資本主義経済が未だ種々の制約に服しない時代の理論が産んだものであり、営農型態の後れているわが国の農地の正当な地代部分をあらわす概念として採用し得るものでないことが認められ、これに反する鑑定人気賀健三鑑定の結果並びに甲第一五号証、甲第一六、一七号証の各一、二及び証人江碕健三の証言(以下、これらを総称して「気賀鑑定等」という)はいずれもたやすく採用することができない。してみると、差額地代の存在及びそのいわば万能性を前提として被告採用の算定方式の各因子の数値に自由経済下の物価等をでき得る限り導入しようとする原告の反論は失当であるといわなければならない。そして、上来述べるところの農地所有権の性質の変化及び当時のわが国の経済体制が統制経済体制をとつていたことなどにかんがみるときは、上記算定方式における各因子の数値は、それが合理的なものである限り、当時の統制経済下における物価等を基礎とするのが相当であるとすべきである。

十、そこで次に、被告の主張する各因子の数値が果して合理的であるか否かを個別的にみることにする。

(一)  粗収入の部門

1、農家の年間反当り玄米収量が二石であるとの点……原告は、まずこの数字は実収平均高より過少であるとして二、三の事情を挙げているけれども、いずれも十分な立証で支持されていないから、採用することができない。次に、原告は、右二石なる数字は昭和一五年〜一九年間の平均実収推定高であるが、それは食管の同年間の生産費調査による収量高二・四〇三石なる数字と比較して不合理かつ過少であるという。

しかし、仮に反収量と生産費との間にはその増減関係において一定限度までは正比例するというような密接な関係があり、これがため反収量の正確な測定は生産費調査の結果によつてすべきであるとしても、この生産費調査の結果による場合においては――被告は上述のように生産費については昭和二〇年度のものを採用しているのであるから――原告も反収量について食管の昭和二〇年度分生産費調査による収量高一・八一七石(大内鑑定による)をこそ主張すべきであるのにかかわらずそうしていない。のみならず、大内鑑定によると、そもそも反収量と生産費との間には右のような密接な関係のないこと、したがつて被告のように昭和一五〜一九年間の平均実収高二石に対し昭和二〇年度食管調査の生産費を対応せしめても(すなわち、逆にいえば、反収量として生産費と関係のない数字を採用しても)特別の支障はないことが認められるから(これに反する気賀鑑定等は採用しない)、原告の反論は理由がない。すなわち、本数値は合理的な数値であることができる。

2、右の価額が二三四円三六銭であるとの点……被告の計算は、供出分一・一四三石×一四八円八〇銭(昭和二〇年産米生産者価格一五〇円より運賃諸掛りを控除した額)と自家保有分〇・八五七石×同年産米消費者価格七五円との和である。これに対して原告は、自由米価を用いなかつた点、もし統制米価を用いるとしても、生産者価格を三〇〇円としなかつた点及び保有分について消費者価格を適用した点を非難する。まず、自由米価を用いなかつた点については、自由米価を用いることこそ不合理であり、統制米価を――それが相当なものである限り――採用すべきであることは、上述したとおりである。そこで、被告採用の統制米価が相当であるか否かを考えるに、第一に、供出分について適用された生産者価格として、一五〇円が採用されて三〇〇円が採用されなかつた理由として被告がるる述べるところは、真正にできたことに争いのない乙第一号証及び大内鑑定によつて充分納得できるから、右一五〇円なる数値は相当であるとしなければならない。第二に、保有分について消費者価格七五円なる数字を採用した点については、真正にできたことに争いのない甲第三号証及び大内鑑定によれば、当時米の価格については生産者価格と消費者価格の二本立てが考えられたこと、昭和二〇年頃のわが国にあつては国民生活安定のため後者を前者よりも高額に定め得なかつたこと、わが国のように家族的小経営によつて農業が営まれるところにあつては経営部門と家計部門とが判然わかれていない関係上、その粗収入の算定にあたつては一応これらを切りはなし、自家飯米については経営部門(生産者たる農民)から家計部門(消費者たる農民)に売渡価格は一般消費者価格と同じに扱うのが妥当であることなどの事実が認められるから、保有分について右七五円なる数値を採用したこともまた相当であるといわなければならない(気賀鑑定等も以上をくつがえすものではない)。

3、副収入が一四円三九銭であるとの点……この点については原告も争つていない。

(二)  生産費用の部門……これが二一二円三七銭であることについても原告は争つていない。

(三)  地代部分……以上を前提とする限り、この部分についても争いがないわけである。

(四)  自作収益価格及びこれと標準賃貸価格との関係……右(三)についてと同じである。

(五)  原告は、以上について、その後本件買収時までの米価の騰貴を考慮していない点をも非難する。しかし、大内鑑定によつても明らかなように、米価が騰貴することは同時に生産費の騰貴する場合の多いことを意味し、現に昭和二〇年当時から昭和二二年当時にかけては右の現象が顕著に看取できること、別の言い方をすると、米価の高騰は農地価格(自作収益価格)算出の決定的要素となる地代部分を常に増額せしめるものではなく、むしろ前記年度間においては右部分はかえつて減少している事実が認められる(これに反する気賀鑑定等は採用できない)から、被告のしたように昭和二〇年度の米価を基礎とした対価を昭和二三年の買収時にそのまま適用しても、これがため相当性を欠くに至るのもとすることはできない。

(六)  原告は、最後に、被告の算定は本件土地が二毛作田であることを配慮していないという。しかし、大内鑑定によると、この点に関して被告の説明することが充分理由あるものであることがわかり、気賀鑑定等も右を左右するに足りないから、原告の反論は理由がない。

(七)  以上の次第であるから、被告がその算定方式上採用している各数値はいずれも相当なものであるといえる。すなわち、これらの平均的・客観的数値を上記の算定方式に従つて組み合わせるときは、その当時におけるわが国農地(田)の適正な自作収益価格が算出されるとすることができる。

十一、農調法所定の田の統制取引価格は、以上のとおり、前記各数値を上記の算定方式に従つて組み合わせて得た価格、すなわち適正な自作収益価格(を標準賃貸価格との関係で表現したもの)であつて、当時のわが国にあつて充分合理的な田の交換価格を示していたものということができる。したがつて、これと同一価額をもつて田の買収対価と定めた自創法六条三項の規定は、正しく憲法二九条三項にいう「正当な補償」すなわち「相当な補償」を定めた規定というべく、合憲といわなければならない。これによつて定められた本件田の買収対価もまた当然合憲適法のものといわなければならない。

自創法六条三項の規定が合憲なることについては、さきに最高裁判所が判断をくだしているが(最高裁大法廷昭和二八年一二月二三日判決)、原告はさらに細かく踏み込んで、しかも全く独特の角度から、右規定が違憲であるゆえんを明らかにしようとかかつたので、当裁判所もまた煩をいとわずこれに答えた次第である。結局、当裁判所のみるところも、結果においては、最高裁判所が判決したところと同じである。

十二、以上のとおりであるから、原告の本訴請求は、すでにその前提において失当たるを免れないが、仮に自創法六条三項の合憲性の点に問題があり、かつ原告が同法一四条によつて右六条三項による対価額以上の増額を主張し得るものとして、原告の請求が認容し得るものであるか否かを考えてみるに、原告の主張は、憲法二九条三項にいう「正当な補償」の解釈及び農地所有権の本質に対する理解の仕方において誤りを犯しており、したがつてまた、農地の自作収益価格を算定するに当り差額地代の観念を出発点とする点に誤りを犯すに至つたことは上述したとおりである。しかも更に、その主張する農地価格算定方式なるものは、(一)法定賃貸価格は基準年(昭和六〜一〇年)のわが国農地(田)の差額地代性ある地代部分をあらわしていた。(二)差額地代部分は米価と比例的に変動する、という二つの前提のうえに立つているものとみられるところ、大内鑑定によつても明らかなとおり、右の(一)は近似的には認められるにしても(ただし、それは、本来の差額地代に近似するのではなく、劣等地の農民には最低生活費をさえ保障し得ないというわが国農業の現実の下に実現された安定的小作料に近似するのである)、右の(二)の考え方はさきに判示したとおり誤りであるから、右算定方式自体を問題にしてみても、これによつて農地(田)の合理的な自作収益価格を出すことはできないものといわなければならない。

十三、結局、原告の請求は、憲法にいう「正当な補償」を超える対価額への増額を求め、かつその差額分の支払を求めるものであつて、理由がないから、これを棄却し、訴訟費用は敗訴の原告に負担させることとして、主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第二部

裁判長 裁判官 新 村 義 広

裁判官 入 山   実

裁判官 小 谷 卓 男

(目録省略)

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